訳者あとがき

訳者あとがきをそのまま掲載します。


Blass, T. (2004). The Man who Shocked the World: The Life and Legacy of Stanley Milgram. New York, NY: Basic Books. 

ブラス、T. (2008). 服従実験とは何だったのか: スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産 (野島久雄・藍澤美紀訳)、誠信書房


======= 訳者あとがき

 スタンレー・ミルグラムが51歳で亡くなってから20年以上経つ。1960年代に本書で詳述される「アイヒマン実験」で人々に「電気ショックを与えた」後、20 年にわたって社会心理学の世界で毀誉褒貶相半ばする有名人として活躍し続けた。そして、1984年の早すぎる死の後も、ミルグラムに関する話題はとぎれることなく続いている。本書(Blass, 2004)は、ミルグラムと服従実験に関する数多くの著作(Blass, 2002)を発表している心理学者であるメリーランド大学ボルチモアカウンティ校(UMBC)のトーマス・ブラス教授がスタンレー・ミルグラムの生涯をたどり、その研究の社会的影響と意味を明らかにした労作である。

 本書を一読していただければわかるように、ミルグラムはきわめて創造的な人だった。「アイヒマン実験」と呼ばれた服従研究だけでなく、数多くの新しいトピックに取り組み、それぞれのトピックを社会心理学の分野において、後に残るテーマとしている。放置手紙調査法、スモールワールド調査法、親しい他人、テレビと暴力の問題、都市のメンタルマップなど、今でもトピックとして面白く、研究としても引き続き取り上げられているものばかりである。

 本書の中で最も大きく取り上げられているのは服従実験である。実験を行ってから40年も過ぎた現在でも、想像もできないほど残酷な出来事が起こると、この実験が引き合いに出される。たとえば、2004年にアメリカで出版された「服従の心理」の改訂版の序文で、認知心理学の分野の大御所であるジェローム・ブルーナー教授が、イラク在留米軍がイラクの「アブグレイブ刑務所」でおこなったと言われる捕虜虐待の問題を服従実験にからめて議論している(Bruner, 2004)。服従実験は、今後ともこうした事件のみならず、日常における権威主義的な行動を考える際には必ず引用される基本文献であり続けることだろう。また、この実験によって提起された、人を対象とした実験は倫理的でありうるかという問題は、心理学の実験に興味を持つ人ならば、避けて通れないものである。著者のブラス氏は、このテーマについても幅広い文献レビューを行い、ミルグラムがそもそも倫理問題に敏感であり、一部で非難されたような実験のためなら何でもやるマッドサイエンティストではなかったということも明らかにしている。本書では、実験の詳細な説明が2章にわたって書かれている。服従実験は社会心理学の授業のなかでは必ず触れられるトピックであるにもかかわらず、詳細を知る人は必ずしも多くはない。実験の実態がどのようなものであったのかをよく理解していただきたい。

 服従実験は歴史上きわめて重要なものであるはあるが、現時点で多くの人がミルグラムの名前を知るのは、むしろ、スモールワールド研究における「6次の隔たり (six degrees of separation)」との関連であるかもしれない。6次の隔たりとは、本書にも説明があるように、地球上すべての人が6人の知り合いを間に挟むことによってつながるということを比喩的に述べたものである。読者の皆様にも考えていただきたいのであるが、相互に名前を知っている関係の知り合いをたどってアメリカの大統領に手紙を渡そうとしたら、仲介者は何人必要だろうか。50人?100人? 実は、そんなには必要ない。たとえば、もし皆さんが大学生ならば、ゼミの先生・学部長・学長・文部科学省の偉い役人・文科大臣・首相をたどれば、アメリカの大統領につながるのである。(もちろん、本当に手紙が渡るかどうかは別の問題である。)
 これは、意外に思える結果であり、それがゆえに多くの人の興味を惹いてきた。日本においても、三隅・木下(1992) による追試がある。それによれば、福岡から出発して、その人の知らない大阪の特定のターゲットの人に到達するまで平均して6.2人の仲介者が必要だったという。また、知り合いをたどってターゲットに到達するまで何人必要かという企画がテレビでも催されることが多い。たとえば、1988年に放映された毎日放送「ともだちー宗谷岬発武庫川行ー」という番組では、稚内の海岸にいた89歳の女性から、ターゲットとして選ばれた武庫川在住の14歳の中学生の女の子につながるまで、13人の仲介者が必要であった。この番組は、1988年の芸術祭賞放送作品賞を受賞している。ことほどさように人の興味をひくわかりやすい実験なのである。

 しかしながら、この6次の隔たりの6人という数字に本当に意味があるものなのかについては、長らく議論がなされてきた。調査の方法論的な問題もあり、ターゲットの人にまで知り合いのつながりが途中で切れてしまうことが多かったからである。人と人の関係は、点(人)と線(つながり関係)で表現されることがあるが、このつながり関係が実在するかどうかをどのようにしてデータとして得るかは困難な課題だった。それは、人がどれくらいの知人を持っているかを調べるための研究を振り返ってもよくわかる。
 あなたは、自分の友達の数、生まれてからこのかたコミュニケーションをした相手の人数をわかっているだろうか。コーヘン(Kochen,1989) の本でも、この人間関係を記述し、測定するためのさまざまな試みが提案されており、一人の人の知人の数が数百人から数千人の間であるというデータも示されているが、どれも信頼性に欠ける。6次の隔たりの結果が私たちにとって意外なのは、私たち自身がいったいどれくらいの知人を持っているか、その規模の見当さえもつかないからなのである。しかし、その状況を一変させたのが、インターネット時代の到来だった。人と人のつながりを示すメールのやりとりは記録に残り、誰と誰が情報交換をしているかも簡単にわかる。さらに、ワールドワイドウェブにおけるページ間のつながり(リンク)は、まさに、ミルグラムが知りたかった世界の情報のつながりを可視化したものといえる。そうした観点から、ミルグラムの「スモールワールド研究」が再発見され、グラフ理論という強力な分析道具が導入されることにより、社会構造のネットワーク分析という新しい研究分野が生まれたのである。その意味では、ミルグラムの研究が直接に現在のスモールワールド研究を生んだというわけではないが、彼の都市問題、人間関係の変化などに関する問題意識のするどさが、その後の研究を引き出したということは言えるだろう。

 1960年代から70年代にかけてのミルグラムの研究は、現時点から見てもかなり先を行っているものだった。都市生活の中で、たとえば、通勤電車の中で毎朝見かけるが話しかけるわけではない「親しい他人」の存在、あふれんばかりの情報の洪水に人がどのように対応しているかという「情報過負荷」の問題、テレビなどのメディアが人の攻撃的な行動にどういう影響を及ぼすかというテレビの影響についての検討・・・ こうした問題意識をミルグラムは、40年以上も前から、人・車・情報にあふれるニューヨークという大都会で生活するなかで、具体的な心理学の実験として目に見える形にしてきた。その後の技術の進歩、インターネットなどのコミュニケーションメディアの進展に伴う人のつながりのあり方の変化は、ミルグラムが60 年代以降に感じ取っていた社会の変容をさらに拡大・先鋭化してきた。そして、これらの問題は、情報過負荷の環境の中で都市に生きる現在の私たちの問題でもある。

 現代に生きる人の心理をテーマとして取り上げたミルグラムは、たくさんのユニークな実験を行い、論文やエッセイも数多く書いた。たしかに彼は理論を重視する研究者ではなく、興味深い現象を発見し、それを端的に示してみせるタイプの研究者だった。そのため、ミルグラムは、有名ではあったが、心理学の分野では正当に評価されてきたとはいえなかった。本書を通じてミルグラムの研究史をたどることによって、読者がミルグラムの研究の多様性を知るとともに、それが彼にとって必然的なものであり、そして私たちの現在の問題につながっていると言うことを知っていただけると、著者のブラス氏と訳者の私たちはうれしい。また、波瀾万丈であったミルグラムの生涯は、読み物としても面白いものになっていると思う。楽しんで研究をするのが好きだったミルグラムと同じように、楽しんで本書を読んでいただきたい。

 翻訳に当たっては、多くの方々のご援助を得た。著者のブラス氏には、日本語版への序文をいただくとともに、本文中の疑問点についても問い合わせをさせていただいた。彼の管理しているページ(http://www.stanleymilgram.com) には、本書を含め、ミルグラムに関するたくさんの情報があるので、ぜひ一度訪問していただきたい。

 訳者の一人(野島)の20年来の友人であるワシントン大学のマーク・クリスピンさんとそのパートナーのアニー・リーさんには、翻訳に当たっての疑問点の数多くに答えていただいた。簡単な単語のつながりであっても、生活の中で英語を使っている人でなければわからない言い回しなどについて、貴重な助言をいただいた。ここに深く感謝する。クリスピンさんたちの手助けがなければ、さらに誤訳の数が増えていたに違いない。

 最後になるが、個人的なことも含め、本書の翻訳の経緯について少し語らせていただきたい。大学時代に社会心理学を専攻した訳者の一人である野島にとってミルグラムは、ヒーローの一人だった。服従実験の衝撃、放置手紙実験法のシンプルさ、6次の隔たりのイメージの膨大さ。また、「びっくりカメラ」に示す興味などからわかる好奇心の旺盛さ。その後、野島の研究分野は社会心理学から若干異なる認知科学に移ったが、常にミルグラムのことは気になっていた。いったいミルグラムというのはどういう研究者であり、彼の研究にはどういう意味があったのか、それがどのように受け入れられていたのか(あるいは、拒否されていたのか)についての疑問の一部は、ブラス氏が1992年の「実験社会心理学の進歩」に寄稿した「スタンレー・ミルグラムの社会心理学」(Blass,1992)で解決することができたが、ミルグラムの全体像については、わからないままだった。たまたま、そのブラス氏がミルグラムの伝記を書いたことを知り、ぜひこれは翻訳しなければならないと思い立ったのである。

 翻訳に当たっては、藍澤が全体の訳を作り、それをベースに野島が追加修正した。十分注意を払ったつもりではあるが、誤訳・誤解など問題があれば訳者の責任である。ご教示いただければありがたい。ミルグラムの研究については熟知しているつもりであったので、翻訳も短期で終わると思っていたが、予想外に長く時間がかかってしまった。始めたときは、NTT厚木研究開発センターでの同僚であった二人だが、その後、野島は大学へと所属を変え、藍澤も結婚して生活の場をアメリカに移している。編集者である松山由理子さんには、予定をはるかに越える時間がかかったにもかかわらず、おおらかに受け入れていただいたことに感謝したい。

 日本では、個人の伝記はあまり売れないと聞く。他人の、それも環境が全く異なる他国の人の話を読んでも参考にならないと思うからだろう。また、研究と研究者個人の人生を分離して考えべきだとする人も多いことだろう。しかしながら、ミルグラムの生涯には、心理学の研究者のみならず、人の心の働きについて興味を持つ人にとっても参考になることがたくさん含まれている。ミルグラムの服従研究や都市生活の心理学を本当に理解するためには、彼の人生を知ることが役に立つはずである。それに、ミルグラムは人間としても、きわめて興味深い人なのだ。本書が、多くの人に受け入れられるように願っている。

2007年12月
                        野島久雄・藍澤美紀


== 参考文献 ==
(本書発行後の追加情報、邦訳文献リストなどについては、http://www.nozy.org/milgram.html をご参照いただきたい。)

Blass, T. (1992). The Social Psychology of Stanley Milgram. In M. P. Zanna (Ed.), Advances in Experimental Social Psychology (Vol. 25, pp. 277-329). New York, NY: Academic Press, Inc.

Blass, T. (Ed.). (2000). Obedience to authority: Current perspectives on the Milgram paradigm. Mahwah, NJ: Lawrence Erlbaum Associates.

Blass, T. (2004). The Man who Shocked the World: The Life and Legacy of Stanley Milgram. New York, NY: Basic Books. (本書の原著)

Bruner, J. S. (2004). Foreword, In S. Milgram, Obedience to Authority. Perennial Classics Edition, New York, NY: HarperCollins Books.

Kochen, M. (Ed.). (1989). The Small World. Norwood, NJ: Ablex.

毎日放送 (1988). 「映像80 ともだちー宗谷岬発武庫川行ー」(ディレクター: 山本利樹、横浜にある放送ライブラリー(http://www.bpcj.or.jp) でこの番組を視聴することができる)

三隅譲二・木下冨雄. (1992). 「世間は狭い」か? 日本社会の目に見えない人間関係ネットワークを推定する. 社会心理学研究, 7(1), 8-18.

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